2008年12月12日金曜日

京都の日帰り旅行。  の続編2

仁和寺は、平成6年に国際連合の世界遺産に登録されたそうで、なるほど と うなずける。

隣接の観光バスの駐車場から東門をくぐり(旧御室御所、総本山 仁和寺と看板が出ている)、ジャリ道だったか、かなり歩いて 左右に開けたところに出ると、左手少し下り坂の奥に 黒々とした年代物の
大きな 二階建ての 巨大な門構えが目に飛び込んでくる。

下りながら近づくと ますますその門は偉容、威容を感じさせ示してくれる。これが二王門だった。

この二王門の内側  二王門から中門の間は参道だそうだが、白壁と立木に囲まれた範囲は広く長く、
芝生全体を含めると、平安時代には なぎなた、あるいは太刀を持った僧侶が一万人位は待機出来そうな程の広さが有った。

紫宸殿(移築されたから宸殿)は二回の火災で焼失しており、現在の建物は、明治の時代に建てられたものである事を、帰り際に 玄関(拝観御殿)の、中に向かって右側の奥に有った 掲示板の、説明文の終わりの方に書いてあった。

広く長く続く縁側は よく手入れされていて 風雨の時は濡れる縁側であるにもかかわらずピカピカと形容してもいい程によく手入れされていた。

毎日大勢の観光客が、手に手に靴を 買い物袋に入れて 観光ルートに従って拝観させてもらう、
月に何万人か 何十万人もの人が歩いて通る通路(一部は畳を敷いた通路の間)のぬれ縁である。

丁度紅葉、もみじの季節である。庭の石庭 庭園が美しかった。

ここでは別のカメラで25枚撮った。途中ポケットからカメラを出す時、〔動き回っていたので(熱く)暑くなり 脱いだ上着と靴を抱えていたので、焦りもあったのか、〕誤って、うっかりして無造作に引きだそうとしていた。カメラのシャッターボタンに触れてしまい、服を写してしまった。

池もあり(これは宸殿の北庭であった) 石灯籠もあり、小さな白いジャリの(白川砂と杉松だそうで)
南庭の、良く整備されたゴミ一つ無い 美しい行き届いた庭園を、縁側に腰掛けてしばし(汗を拭きながら)眺めてきた。ここでもっと時間をかけて 風景に埋没してきた方が 良かったのに と今頃思う。

時間を費やすほど、ゆとりを感じられる 交換価値の有る空間ではないかと思います。

僕が座ったのは、(縁側から足を垂らして)縁側に腰掛けたのは(白書院の方で) ズラーと人が並んで腰掛けていたので、空いていた縁側の周り角、廻り縁の、かどっこの、端の方で 柱の近くだったが、若い女の子の左横であった。

宸殿の「床の間」に、赤い袈裟を着た後鳥羽上皇(と思いますが)を描いた掛け軸の掛かった部屋の「天井」はめったにお目に掛かることのできない立派なもので、天井も入れて写真を撮ったがフラッシュの光が足りないのか 薄暗いぼけた写真になっていた。 室内の撮影には失敗していた。

曖昧な記憶より確かな映像として、今日は(翌日の17日の事)きのう撮ったカメラの現像に(今の子供さんは デジタルカメラばかりで、こんな事は知らないのではないかと思う)出しに行く予定である。
おみやげも渡しに行く予定。   太秦(映画村)で、帰り際に引換えた記念写真も持って行って。
太秦、ウズマサ
難しいこの読み方は  
 参考に。  調べると
仁徳天皇の頃(393~427年)、弓月国(カザフスタン)の王が 127縣(19万人)の 民を引き連れてやってきた。    《海を渡った大集団の記録》
その長の名(氏)を 秦氏(はたうじ)という。
(日本の人口、このとき600万人)その後、近畿を中心に勢力を伸ばしていった。
集団の中心的人物、秦河勝(はたのかわかつ)は 聖徳太子の側近と成り、冠位十二階、憲法十七条を作るのに大きな影響を与えたとされている。

本拠地は京都の太秦(うずまさ)であり「秦」の字が残っている。

ウズマサ・・・ヘブライ語で「光のたまもの」という意味。ウズ・・・光、 マサ・・・たまもの。
「ウズマサ」という読みはヘブライ語。 とのことです。

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